30代男の食卓

作った料理、読んだ本

はじめチョロチョロ・・・の心

最近はなんだか和食が多い。近所の農家で作っている野菜を売っている(安い!)八百屋が気に入って通っているからだ。ほうれん草や蕪に大根、新牛蒡などなど、イキのいい野菜をどうこうしようと思ったら、まずは和食が思い付く。

京都は瓢亭、木乃婦といった料亭の料理長たちの、和食についての対談を見て、いろいろ学ぶことがあった。内容は素人向け。

■米の炊き方

って、「はじめチョロチョロなかパッパ、赤子泣いても蓋とるな」がよく分からないな(特にはじめチョロチョロが)と思っていたのだけれど、それもそのはず、この炊き方は竃に火をくべるやり方であり、しかも料理人が口ずさんだのはもっと長いバージョンだった。曰く、

「はじめチョロチョロなかパッパ、ブツブツいうころ火を引いて、一握りの藁燃やし、赤子泣いても蓋とるな」

はじめチョロチョロは、われわれにとっては省略すべきプロセス。竃に火をくべて、だんだん火力が増してくる様子を模しているだけなので、あえてはじめチョロチョロにする必要はない。最初からパッパでいく。

「蓋はね、取ってもいいんです」と彼は言う。蓋とるな、とは、最後の蒸らしの過程で、蓋を取ってはいけない、ということなのだそうだ。

  • 蓋とるな、が、火を引いて、の後にくるバージョンもあるようだが、この場合、火を引いてから余熱で調理する必要があるので、蓋をとるな、ということだとも理解できる。少なくともどちらのバージョンにしても、僕が誤解していたように、「なかパッパ」のときに「蓋とるな」ではない、ということだ。

そして、吹き上がりが収まって、米の表面近くでブツブツ(グツグツ)いうようになったら、竃ならば火を落とし、最後に藁を燃やしてわっと熱して蒸らす。ガス火なら、ブツブツいったら弱火にし、香ばしい香りとパチパチ爆ぜる音がしたら、最後に10秒、強火にして、蒸らす。

そうそう、忘れてはならないが、米は最初に洗って、浸水すること。洗うときは、最初の水はなるべく早く捨てる。水に触れた瞬間から浸水していくのだけれど、ここで糠の匂いを吸収させてはならないからだ。

 

■そして出汁の心

ウチでの出汁のとり方です、といって、自宅での出汁の引き方を語ってくれた手順は、水に昆布と、鰹節もここで入れてしまうとのこと。ゆっくり加熱して、鰹節がゆっくりと回転するくらいの火加減。ここに酒を入れ、臭みを飛ばす。ざるで濾して出来上がり。

 

探究心と、旬を感じる感性、これが料理の心であろう。と理解したのを忘れずに記しておく。

Return of the kung-fu world champion ~上原ひとみ

もう何年も前、10年くらい前のこと、NHKトップランナーで上原ひとみがこの曲を弾いていたのを聴いて、見て、ぶったまげたのだ。

Kung-fu world champion カンフーの達人は、上原ひとみが愛するブルース・リージャッキー・チェンのイメージで作曲したという曲で、映画を観ているような(というのは先入観かな)躍動感と、ブルース・リー的な哀愁も織り交ぜた、素敵な曲だ。

何度も何度もCDのこの曲だけを聴いていたのでもう耳が慣れ過ぎてしまって、最初の頃の驚きは薄れてしまっているけれど、この曲を聴くと思い出すのは、上原ひとみがとても楽しそうにピアノとシンセサイザーを弾いている姿。顔。話しているときも、笑顔が大きな人なんだ。

で、この人の2009年のピアノだけのアルバム「Place to be」を久々に聴いて、また心を掴まれた。ベルン・ベイビー・ベルンとか、シュー・ア・ラ・クレーム(この人ほんとにシュークリームが好きなんだろうな!)とか、躍動感、愛らしさに引き込まれ、またPlace to be あるべき場所?これから行く場所? のしんみりとした情感に揺さぶられる。

「自分の20代の音を残しておきたかった」そうなのだが、そうか、たしかに30歳(僕は少し通り過ぎて31歳になってしまったけれど、やはりそう思うに)というのは、節目の歳なのかもしれない。

自分の力を揮う機会に恵まれて、僕の前にも世界は拓けていることを感じ、それは思っていたよりもずっと拓けているようで、可能性にわくわくしつつ、まだちょっと燻ぶっているような。

 

いい音楽を聴くにつけて思うのは、自分はこの人生を通じて、心を震わせるものを求めていきたいのだ、ということ。

拙い楽器であってもいい。技術は拙くても、妙に心に響く演奏があるってことを僕は知っているし、逆に、上手くても心に響かない演奏だってある。誰かとアンサンブルをやれば、心の触れ合う瞬間もある。

そして、わかりやすいゲージュツばかりではなく、料理だって、言ってみれば表現であり、芸術だ。自分の心に触れた何かもやっとしたものを掬い取って、何とかカタチにして、そら、どうだ、とまな板の上に載せてやるのは料理も一緒じゃないだろうか。そのもやっとした心の揺らぎは、素材に対する何かかもしれないし(季節の食材を手にすれば心が躍る)、誰かのために作ることかもしれない(料理はコミュニケーションの媒介であって、料理を通じて心を触れ合わせることだってできるのだ。大げさかな)。

そういうものを創り出そうとするのにはエネルギーが要るけれど、やるだけの価値はあるはずだ。たとえ一人遊びに過ぎなかったとしても、怠惰な姿勢からぐっと一歩踏み込んでエネルギーを使って、技術や感度を磨いていきたい。そうしておけば、いつか誰かのためにその能力が使えるはず。

独り身のうちにやるべきこと

ああ、そうだなあと、ぼうっと歩きながら急に得心した。

ギター弾いたり、趣味的な料理をしたり、浴びるほど本を読んだり、じっくり勉強したり、こういうことって独り身のうちにしかできないことだ。あとそう、ブログ書いたり。他人と一緒に暮らしたり、子どもができて家庭生活が忙しくなったりしたら、まず優先度の低い趣味はどんどん手放さざるを得ないだろう。

ギターを、ちょろっとしか練習しないで「ああ、なかなかモノにならねえ」なんて言っている場合じゃないのだ。モノにしたいのであれば、今のうちに猛練習してモノにしておかなくてはならない。

ひょんなことから素人アンサンブルをやったりしたけど、たとえば、この勢いを消してよいのか。

学生時代にクラシックギターのアンサンブルのサークルに入っていて、簡単な楽譜を、楽譜ソフトを使って作ったりしたのだけれど、そのときの要領を思い出しながらにわかアンサンブル・・・ピアニカ、リコーダー、アルトリコーダークラシックギター×2・・・のための楽譜を作って、指揮(僕のほかにギターが2台いたからもう指揮しかやることない)してみたり。やった曲は I saw mommy kissing Santa Clause。

やってみて思ったのは、才能のあるなしとか、技術のあるなしよりも、やるかやらないかが大きいのだということ。俺ぐらいの能力でも、楽団を率いることができる!

とまあ、なんだか話が逸れたけれど。

ピアニカの人とは、僕のクラシックギターとでピアソラリベルタンゴもやった。楽しかったなあ。

いや冷静に聴いてみれば、とても聴けた演奏ではないのだけれど、それでも音のやり取りには何かがある。心に触れる何かが。聴いてくれた人にもそれが少しでも伝わっていたらいい、と思える何か。

こんなにも自由があって、自由を持て余しているなあ。しかし的を絞らないと。

まあ、全力で仕事しろよ、という気もしないではないのですが。